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原作者と物語の流れの優先事項について
以前,僕が攻殻機動隊の人気キャラクター,タチコマが人気があるにもかかわらず,ドラマの終盤で機能が停止してしまったことについて異議を唱えた際に,わが尊敬するブログ,『ゴーストの囁き』管理人の課長様から,『テレビシリーズは,最後は原作に全てを返すということになっていた』と伺った。つまり,テレビシリーズのオリジナルキャラクターであるタチコマはいずれにしてもこの時点で消すことが必然だった,ということになる。
当初,僕はこの言葉の意味が飲み込めなかった。
魅力的なキャラクターだけに,アニメはアニメとして独立してその存在を維持するべきだ,と。

しかし,その直後,僕は部長様の言葉の意味をなんとなく,少しずつだが,理解することになる。

そのきっかけは攻殻の最終回を見てから数週間後に見た,映画『オペラ座の怪人』(2004年公開版)だった。僕は子供の頃から,この悲しく美しい童話(?)が好きだった。
だから映画も同じような物語を期待していた。しかし,最後の最後で裏切られた。ラストの一齣に現れる黒いリボンのついた薔薇。この描写はまるで『オペラ座の怪人がまだ生きている』とにおわせるような表現である。
結論から言って,蛇足であるばかりか,ストーリーの意味を根底から覆してしまっている。
僕が読んだ本のラストは確か,エリック(オペラ座の怪人)の死がひっそりと新聞の記事に掲載される,というシーンで唐突に終わっている。
しかし,映画ではあたかもエリック(なぜか映画ではエリックと呼ばれなかった。不思議だ)がまだ生きているような描写をしたため,なにもかもが台無しになってしまっている。これではまるでB級ホラー映画と同じである。いくら映画はオリジナルとは別物とはいえ,根底を覆してしまっては,どうしようもない。

つまり,エリックの死というファクターは,とても必要不可欠な意味を持つ。それはエリックが浄化されて,恐ろしい怪人でなくなるには,彼自身が納得して受け入れられる形の『死』という手段がどうしても必須だ。物語はエリックを死なせることによってその魂を浄化させる。

つまり,この物語の意味は,ラウルとクリスティーヌ,あるいはエリックとクリスティーヌの恋愛物語ではなく,エリックという極めて一個人の男の魂の救済の物語である。しかし,映画での『オペラ座の怪人』は,この大切な本質を無視して,エリックの息の根を確実にしとめなかった。これは大失敗である。(主演のエミー・ロッサムも問題あり。歌と鼻の穴と歯を何とかするべし)
仮にもし僕が監督だったとしたら,エリックの死は重要であると考えるから,ラストは何らかの形でエリックは死んだとハッキリと分かるシーンを提示した上で,エリックの魂が救われたということを明確にする描写で締めくくるだろう。

つまり,この時点で僕が理解したというのは,どんなに魅力的なキャラクターであっても,原作者の意図を理解尊重,あるいは物語の流れに従う為には,消さなくてはならないことがある,ということだ。それはタチコマもエリックも同じ事である。

また,例外として『ベルばら』のオスカルのように死亡することによってその存在が神格化され,さらに魅力的なキャラクターになる場合もある。この場合も,オスカルは魅力的なキャラクターでありながらも,砲弾にあっさりと倒れる。しかしそうすることによってオスカルの魅力は伝説化される。その辺りの効果を踏まえて池田理代子はオスカルを殺したのだろうし,もしテレビシリーズでオスカルを殺さなかったりしたらそれは池田理代子の意図を無視することになる。

以上の点を踏まえると,攻殻機動隊の原作者は士郎正宗であって,神山さんではない。つまり神山監督は,士郎正宗に対して敬意を払わなくてはいけない。本来士郎正宗の原作に登場しなかったタチコマを消すのは,士郎正宗氏に対する神山さんなりの敬意なのかもしれないと思った。
だからテレビの攻殻の最終回が原作のオープニングとシーンが繋がった,という部分も納得がいく。つまり全ての創造主の士郎正宗氏にもう一度攻殻を返還することの暗示である。

したがって,タチコマを消さざるを得なかった神山監督と,エリックの死を願った僕は方向性や状況が多少異なるが,その根底にあるものはそんなに違わないだろう。

当初,神山さんの行動を理解できなかったが,今は少し理解できるかもしれない,と思っている。
もしかしたら攻殻の最終回を見てすぐに『2004年度版のオペラ座の怪人』を見て失望したのは,いいタイミングだったのかもしれない。
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テーマ:攻殻機動隊 - ジャンル:アニメ・コミック


この記事に対するコメント
「オペラ座の怪人」との考察、興味深く読ませていただいた。

死がすべてを解決する手段とはいえないが、その物語の中での存在をどうするかによって、必要なものであると考える。

個別の11人も最後は自決することによって、その意思を全うする事を信じていたわけだが、その目的が何処まで達成されたか、合田に語ったバトーの発言のように疑問な点でもある。

一方、フチコマがあって、タチコマがあって、パラレルワールドといいながらも攻殻世界をそれぞれ意味のあるものとするためには、やはりタチコマはSAC、GIGの中だけでの存在であるべきなのかもしれない。

いろいろ、考えさせていただいた。ありがとう。
【2006/07/05 01:03】 URL | 課長 #grGQ8zlQ[ 編集]

課長さん,感想ありがとうございます。途中お名前を間違えてごめんなさい。(押井派だから,ついうっかり部長といってしまう)

>>その目的が何処まで達成されたか、合田に語ったバトーの発言のように疑問な点でもある。

個別の11人のうち,10人は自殺したけれど,クゼだけは死ななかったのは,やはり当初の目的を達成するには死ぬわけにはいかないということに気が付いたんでしょうね。多分11人のうち,クゼだけが個別の11人の意味について正しく理解していたんじゃないでしょうか。

フチコマがテレビシリーズに出てこられないように,タチコマもSACとGIGにしかその存在を維持できないのはしかたのないことかもしれません。でも夏に3作目が公開されるので,そこへは姿を見せて欲しかったです。
【2006/07/05 11:00】 URL | 杉浦 #V5TnqLKM[ 編集]


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